2013年御翼4月号その4

「天使とは苦悩する者のために戦う者」 ―― ナイチンゲール

 

 十九世紀初め、英国の裕福な資産家の令嬢として生まれたフローレンス・ナイチンゲールは、家族で日曜ごとに教会に通い、神の御心にかなって生きることを願って育つ。裕福なナイチンゲール家は、村の小学校を援助し、近隣の貧しい家々への慈善訪問を慣わしとしていた。それに同行した少女ナイチンゲールも、将来は自分も何かの役に立ちたいと願っていた。そして、自分の住んでいる周りの貧しい人たちへのボランティア活動にも積極的であった。自分が生まれ育った上流社会の生活に疑問を持っていた彼女は信仰深く、十六歳のとき両親の家の庭で、神の啓示を聞く。「汝のすべき事を成せ」と。自分ができることをまっとうしなさい、という御心を受け止めたナイチンゲールは、二十四歳のときに、自分が神に仕える道は看護だと確信する。
 当時、裕福な家では、病気になっても自宅で療養するのが当たり前で、病院は貧しい病人の収容所であった。英国では修道院が病院を運営していたが、カトリックに反対したヘンリー八世が、修道院を解散させたので、病院は都市などが譲り受ける。看護はシスターではなく、一般女性が有給でするようになるが、彼女らはシスターのような社会的身分はない。看護婦になるのは社会的な底辺にいる人たちで、低賃金の彼女らは、患者から金品を受け取り、酒を飲み、行動すべてが粗雑で品格を全く欠いていた。そんな時代に、上流階級の娘、ナイチンゲールが看護の職に就きたいと言い出したのだから、両親は猛反対する。それでも、訓練を終えたナイチンゲールは、三十三歳にしてロンドンの病院に就職した。現在、看護師がプロの仕事として尊敬を集めているのは、ナイチンゲールの功績による。
 十九世紀半、クリミア戦争(十九世紀半、英・仏・トルコの同盟軍 VS.ロシア)が始まった。ナイチンゲールは、政府の高官をしていた友人ハーバート氏の口ききもあり、クリミア戦争に従軍看護師として行くことが実現した。この時、不思議なことが起こっている。ナイチンゲールが、ハーバートに、「クリミア戦争に行って兵士たちの手伝いをしたい」という手紙を書いた同じ日に、ハーバートがナイチンゲールに、「クリミア戦争に来て何か役に立たないか」という手紙を送り合っているのだ。トルコの野戦病院にナイチンゲールが派遣されると、衛生管理や食事が改善され、兵士の死亡率も四二・七%から二・二%に下がった。またナイチンゲールは、英国政府に向けて、「クリミア戦争で夫を亡くした未亡人のケアをもっとしてください」という手紙を出している。これらの功績をたたえ、英国民から贈り物をしたいという申し出が殺到し、「ナイチンゲール基金」が設立され、一八六○年、彼女が設計したセント・トーマス病院内に、世界初の看護学校が設立された。
 クリミア戦争から帰国したナイチンゲールは、三十七歳にしてクリミア熱という伝染病にかかり、背骨や腰が痛み、微熱が続く。その後三十年間を病人として自室にこもるが、彼女は独りになって思う存分仕事に打ち込む自由を得た。最後の十年間は完全に失明していたが、彼女の真の功績は、そのベッドの上から生まれたものだった。彼女はホテルの一室にこもり、医療改革のための政府との交渉、出版活動、そして、病院建設、衛生問題などに関して、八十歳近くまで、世界各地の相談役だった。
 1910年、ナイチンゲールは九十年の生涯を閉じた。国葬を行ってウェストミンスター寺院に埋葬するという政府の意向は避けられ、彼女の遺言により、かつて家族揃って通った聖マーガレット教会墓地に、父、母、姉とともに葬られている。墓石には故人の意思により、F.N.と、イニシャルだけが記された。クリミア戦争での献身的な看護から、「白衣の天使」と呼ばれたナイチンゲールは、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と言っている。クリミア戦争で重傷を負ったある兵士は、「あなたはわたしにとってキリストです」と彼女に言った。

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